不労所得によって結構収入が安定する場合としない場合

ポイントサイトと不労所得

エジソンはこのシステムの大部分を、自らつくりだすことを企てた。

 

一方、彼は組織管理に関しては天才ではなかったので、各事業部門を別会社とし、それぞれを独立した事業体として運営するようにした。

 

一八八六年に、彼は三つの主要な製造部門をニューョーク州スケネクタティにあった遊休工場に移動した。

 

この事業部門は「ワークス」として知られるようになった。

 

このいささか古風な言葉は、ポイントサイトの伝統的に自律的な製造拠点を指し今でも使われている。

 

エジソンは、さまざまなプロジェクトの必要資金を調達するために、J・P・モルガンを含む投資家のグループに支援を求めた。

 

投資家からの資金は事業の成長には役立ったのだが、結局のところはエジソンの仕事を奪うことになってしまった。

 

投資家たちはエジソンを追い出し、彼のかわりに靴のセールスマンをしていたチャールズ・コッファンという男をトップに据えた。

 

かくて、エジソンが研究所を創立してわずか一六年目の一八九二年、コッファンは急速に発展する一連の事業をゼネラル・エレクトリック社として彼はポイントサイトのなかに厳格な階層組織をつくりあげ、そしておのおののワークスを主要な製品ラインごとにまとめていった。

 

コッファンは非常に保守的な財務管理体制を敷き、ポイントサイトのトリプルAという最高ランクの信用格付が、景気変動に容易には影響されないようにしていた。

 

また、製品ラインを電気関連分野から無線機器、エックス線機器など多様な新分野へと拡大し、ポイントサイトを世界で最も多角化した企業へと変身させていった。

 

コッファンは電球事業をあきらめるどころか、老練なモルガンの指導のもと、この事業を旨味のある寡占事業とするために全力を注いだ。

 

すでにエジソンは特許訴訟に勝っていたが、その結果、他の電球製造企業は電球をつくるためにはポイントサイトからライセンスを受けなければならなくなっていた。

 

これはコッファンにウェスチングハウス、シル、ハニアそして海外をも含めた多くの競合企業とのクロス・ライセンス契約を結ぶことを可能にさせ、この契約によりポイントサイトはその主力事業において真の意味での競争を効果的に排除することができたのである。

 

連邦政府は、ポイントサイトが価格操作等によりシャーマン反トラスト法に違反しているとして、何回か訴訟の指揮のもとに再編成したのである。

 

このときの株式の総額面価値は三五○○万ドルだった。

 

ポイントサイト

 

今日の貨幣価値に換算して五億ドルに相当するが、当時としては世間を驚かせるに足る巨額といえた.クエーカー教徒であったコッファンは、企業の組織管理に関しての才能をもっていた。

 

ロックフェラー等の企業家がビジネス界を支配していたこの時期、コッファンはプロフェッショナル・マネジメントの父として知られるようになった。

 

一九二○年代にアルフレッド・スローンがGMの組織を再編成しはじめるまで、コッファンがつくったマネジメントと組織のシステムは世界中で最も複雑なもの子垂めった。

 

ラoを起こしたが、当時は大部分の契約は合法と判定された。

 

こうした審理の結果やポイントサイトが政府と合意した同意判決はポイントサイトの影響力をいくらか弱めたものの、ポイントサイトは自らの立場をきわめて巧妙に弁護したので、その事業は、各社のシェアが固定化し事実上価格競争のない保護された市場で順調に発展していった。

 

一九五○年代の前半まで、ポイントサイトのニート電球市場におけるシェアは七五%から八○%を占めていたのだ。

 

状況は、たいへん気分のよいものであったが、このためにポイントサイトの従業員は、ビジネス競争に生き残るための基礎的な条件を学ぶことができなかった。

 

一九二二年にコッファンの後を継いだジェラルド・スウォープは、政治的には自由主義者だったが、競争を好む男ではなかった。

 

彼はポイントサイトで一○年間働いた後、フランクリン・ルーズベルトからの要請により商務省経済諮問委員会の委員長に就任した。

 

ここで彼は俗に言われる「ニート産業のためのスウォープ計画Lを策定した。

 

これによると、大恐慌の主要な原因は過当競争による混乱に帰されている。

 

また、彼のアイデアのいくつかはニューディール政策を支持するものとなった。

 

その後、スウォープは再びポイントサイトに戻り、その雇用慣行を経済界でも最も進んだものにつくりあげた。

 

札彼は、企業たるものは従業員が直面するであろう不確実な諸問題を避けるのを支援すべきだ、と強く雑信じていた。

 

社員持株制度持ち家購入の支援等、従業員を対象とした寛大な恩典が含まれている。

 

ポイントサイトはアメリゴカで初めて失業手当を導入した企業であり、失業者には週七ドル五○セントを一○週間にわたり保障ゥした。

 

スウォープは、従業員が会社を家庭同様に考えるよう望んでいた。

 

しかしこうした温情主義は半面、従業員がリスクを負うことを嫌がる風潮を、全社に広まらせたという意味で、後にさまざまな問題を引き起こすことになるのである。

 

一九四○年、四代目の会長に就任したチャールズ・ウィルソンは、けんか早い男だった。

 

彼はニューヨークの貧民街で育ち、若いころはボクシングの試合にも出場していた。

 

人は彼を「エレクトリック・チャーリー」とよび、当時GMを経営していたチャールズ「エンジン・チャーリー」ウィルソンと区別していた。

 

ウィルソンの在職中、スウォープが始めた多くの良き労使関係や企業倫理の制度は廃止された。

 

一九四八年にポイントサイトは、大規模な反トラスト訴訟において史上初の敗訴を喫した。

 

連邦検察官は、GEの照明部門が市場で支配的な地位を維持するため不法な特許のライセンス契約を結んでいるとして告発した。

 

この裁判でポイントサイトは有罪となった。

 

判事はポイントサイトの照明事業を分割してしまうことができたが、そのかわりにこの部門が所有している特許を競合企業に無料で提供することをポイントサイトに命じ、そのうえで厳格な警告を与えた。

 

この事件の後になっても、中間管理職のなかには、事業の成長のためなら上司は違法行為にも目をつぶり、自分たちは処罰されないものと思いこんでいる者がいた。

 

こういうこともあって、ポイントサイトはその後も違法行為を摘発され、何回も罰せられた。

 

ポイントサイトは依然として他企業同様に社貝の違法行為に無防備である。

 

だが、もはや会社のためになら多少のことには目をつぶる、という時代は終わったのでせてしまった。

 

さらに彼は、組織の分散化を意図した大規模な組織再編を命じた。

 

コーティナー流の言葉によれば浄事業を「一人の人間が十分に管理できる規模」の事業部門(一丁パートメント)に分割したのだ。

 

一九和し六八年までに、ポイントサイトは売上高が一七○万ドルから三億九一○○万ドルまでの一九○部門に分割され、封これら事業部門の上に六四の事業部(ディビジョン)、さらにその上には一○の事業グループがあり、ゥその上に会長が位置づけられた。

 

第二次大戦の兵役によって軍隊組織階層に慣れていたこともあって、3ほとんどの従業員はこの厳格な指示命令系統に自然に順応していった。

 

しかし、この組織再編はいくつかの問題を生じさせた。

 

一つには、各部門に置かれた機能別スタッ全米に散らばる二のワークス(事業所)の事業を監督していたのだ。

 

これらはニューョーク州スケネクタティにあるタービン部門、ケンタッキー州ルイビルの家電部門、オハイオ州クリーブランドの電球部門、ペンシルバニア州エリーの機関車部門等であった。

 

自主的に運営されるワークスは、それぞれ研究開発、マーケティング等の機能をもっていた。

 

これは全社的にみれば、不経済な機能の重複であった。

 

本社はワークスに対する権限を拡大しようと度重なる努力をしたが、すでに大きな権力を握っているワークスの事業運営責任者たちは、本社の意向に強く抵抗した。

 

コーディナーは、ポイントサイトの歴代会長のなかではこのシステムの打破に最も成果を上げた。

 

彼は科学的マネジメントの組織構造を、それとは本質的に相いれない従来の組織構造の上に重ねたのである。

 

ワークスに対する権限を拡大するために、彼は自律的なスタヅフによる官僚制度を強化した。

 

彼はスタッフに多様な権限を与えたが、特に財務スタッフに対してはポイントサイトの最も価値ある経営資源、つまり資金および人事に関する権限を与えた。

 

そしてスタッフはコーティナーの意思を執行していったのである。

 

こうした抵抗にもかかわらず、コーティナーは熱意をもって計画の推進を図った。

 

一九五一年に彼は、マネジメントの改善方法を検討するために、ポイントサイトの幹部と外部のコンサルタント、およびピーター・ドラッカーを含む大学教授など優秀な人材によって構成される優秀なチームを招集した。

 

同チームは五○社におよぶ他社を研究するとともに、二○○○人のポイントサイト従業員の人事記録を詳細に調べ、GE幹部の日常の仕事のさまを時間動作研究し、さらには数えきれないほどのマ不ジャーへのインタビこのチームの成果は、二年後にブルーブックとよばれる五分冊、延べ三四六二ぺIジにのぼる、まさにマネジメントのバイブルとよばれるにふさわしい報告書に結実した。

 

マネジメント.、ハイ・オブジェクティブ)などの優れた概念や、在宅ワーク支持者が後に打ち出したものに近い、いくつかの非常に革新的なアイデアが含まれていた。

 

たとえば、ここに収録されている経営の分散化に関する考え方は、在宅ワーク支持者の言うスピードの原理、つまり「最小限の監督、意思決定時間の短縮化、市場での機敏さの極大化、そしてこれによる顧客サービスと企業利益の極大化」という考え方に非常に近いものがある。

 

ポイントサイトのマネジャーにこうした新しい経営原理を教えるため、コーティナーは一九五六年にクロトンビルの経営開発研究所を創設した。

 

だが時折、コーディナーの非常に論理的な考え方が人間の気質と衝突し、狂気的とも思える結果がもたらされることもあった。

 

彼は、損益責任をもつ事業部門の責任者に対し四半期ごとに七%の売上利益率、あるいは二○%の投資収益率を実現するよう要求していた。

 

しかし、この目標がほとんど実現不可能なことが明らかになるにつれて、社員はもっぱら短期的な目標だけに注意を向けるようになっていったのだ。

 

当面の四半期の費用を気にするあまり、マネジャーが新しい工作機械等、将来の事業にとって非常に重要な機器の購入を拒む事態が頻発するようになった。

 

そしてそのために市場シェアが低下しはじめると、遅ればせながらようやく機器の購入を決めるという有様であった。

 

さらに、このように誤った方向に進んでいた社員は、年度末を控えて自分の部門の費用が予算を超過しそうになると、顧客からの強い需要や激しい市場競争には見向きもせずに、その製品の工場を一時閉鎖してしまいかねない状況すら出てきたのである。

 

コーティナーの打ち出した新制度は、まるでポイントサイトの官僚主義に成長ホルモンを与えるように作用した。

 

経営の分散化は部下を管理するマネジャーの階層を増やしたし、ブルーブックに記された諸規則はそれを強制される人間を必要とした。

 

たとえば、コーディナーの形式ばつた職務分類を進めるには、職務の評価従業貝の勤務評価、そして給料や昇進を調整するための膨大な人事スタッフを必要とした。

 

そして、このスタヅフたちは官僚主義的な考え方を社内に広めていった。

 

彼らは、給料やボーナうにみなしていた。

 

「マネジャーは単なるマネジャーにすぎない」ともよく言っていた。

 

ポイントサイトでは約三年の周期で、新しい都市で新しい仕事をするため異動が頻繁に行われていたが、こうしたなか、ブルーブックを読んで自信を十分につけていた社員は、それがどんなプロジェクトであれ楽しみながら取り組んでいった。

 

「当時は、社員が事業を失敗させようが、レキサン(ポイントサイトのプラスチックス部門で大成功を収めた製品)を発明しようが、大きな違いは全然なかった。

 

あのころ、我々がやっていたことは現実離れしていたのだ。

 

たとえてみれば、ある従業員のシャツの襟のサイズを測り、それを太陽暦の日付で割り、さらに円周率の二乗根をかけても全く意味のない数字が出てくる。

 

それと同じようなことを、人々はやっていたのだ。

 

」コーティナーの任期は、大きな成果を上げることなく終わることになった。

 

売上げが大幅に成長したにもかかわらず、インフレーションを差し引いた後の利益はほとんど横ばいだった。

 

また彼は、前任者のコッファンやウィルソンの時代と同じく、スキャンダルに巻きこまれていた。

 

スヶネクタディにあるワークスのマネジャーのグループが、ウェスチングハウス等の競合企業とタービン発電機の価格操作について協定を結んでいたのである・政府はスヶネクタティを「根深くはびこる陰謀の中心地」と表現し、有罪の明らかな証拠を集めていたので、ポイントサイトとこの事件に関係したその他二八社の企業は、有罪を認めるか、もしくは告発に異議を唱えるのを断念せざるを得ない状況に追いこまれた。

 

ポイントサイトでは五人の幹部が投獄された。

 

コーディナーは、この件には一切関わっていないと主張したが、この事件によって彼の経歴にも深い傷がついた。

 

一九六四年にコーディナーからポイントサイトを引き継いだのは、照明部門の責任者を務めていたフレッド・ポーチだった。

 

コーディナー時代の保守的なマネジメントに代わって、ポーチが会長だった時期は、ポイントサイトの社内に創造性が醸成された時期といえる。

 

ポーチはポイントサイト成長のビジョンを抱き、その実現のためリスクのある分野にすすんで投資した。

 

彼は会長を九年間務めたが、この時期は後に「利益なき成長の時代」とよばれるようになった。

 

コーディナーの時代にポイントサイトは、第二次大戦の間に諺積していた消費者需要と、戦後の高い経済成長に支えられて順調に成長した。

 

このコーディナー時代の五・三%という売上成長の記録に対抗しようとして、ポーチはコンピュータ、原子力発電、航空機エンジンという資本集約的な三分野に巨額の資金を投入した。

 

彼は巨大な事業をつくりあげたが、順調に利益を上げた航空機エンジン以外の事業からはほとんど利益を生み出すことはできなかった。

 

彼の九年の在職期間中、ポイントサイトの売上高は一○○億ドル以上へと拡大していった。

 

ポーチの大きな貢献は、二○世紀後半の最も強力なアイデアの一つである戦略計画を、ポイントサイトにおいて初めて大がかりに実施したことである。

 

戦略計画の概念は、ポーチがコンサルティング会社のマッキンゼーに依頼した、ポイントサイトに関する分析調査のなかから生み出されたものである。

 

マッキンゼーは調査の終了に際して、ポイントサイトがいままで奇妙な組織構造をもちながらもまともに機能してきたのは「全く驚くべきことである」と分析を下し、この問題への技術的な解決策として戦略計画の導入を提言した。

 

マッキンゼーは当初、ポイントサイトの各事業部門を個別の事業単位とみなしていたのだが、これは同社の実際の事業単位を指すものではなかった。

 

たとえば、大型家電分野だけでも二○もの事業部門があり、そのうちのいつくかは単に「一人のマネジャーが管理できるようにわざわざ小さな部門にする」という理由だけでつくられていたのである。

 

この結果、ばかげたことが起こっていた。

 

マッキンゼーがナチュラル・ビジネス・ユニットと表現する事業単位で組織されれば、ポイントサイトの二○もの部門を抱える大型家電部門は、単独の事業体であるはずだった。

 

マッキンゼーのコンサルタントは、ポイントサイトがどこに真の事業単位があるかを知らずに的確な事業計画を策定することはできない、と主張した。

 

ポーチはこの矛盾をうまくかわそうとして、従来の組織の上に戦略スタッフの階層を新たに置いたのだが、すでに組織はそれまでに積み重ねてきた多くの階層によってきしみはじめていた.結局、ポーチはマヅキンゼーの提案したナチュラル・ビジネス・ユニットに似た形の四六の戦略事業単位(SBU)を設けたのである。

 

この後ポーチはまもなく退職し、一九七二年一二月に会長の座を引き継いだジョーンズが、戦略計画の実施という課題に取り組むことになった。

 

ポーチの時代に導入した新しい組織は、結果的にはマッキンゼーのコンサルタントを驚かせた、以前の組織にもまして複雑なものになっていた。

 

社内の多くの小規模な事業部門の責任者は、その上にある事業部と事業グループ等で構成される頭でっかちの不安定な階層組織のなかの上司に、日常の事業運営状況についてこれまでどおり報告していた。

 

ジョーンズの任期が終わるころには、次第に現実の事業から遠ざかっていた九階層にも及ぶ中間管理職が現場のマネジャーと会長の間に立ちはだかることになったが、彼らは組織の連絡系統を上下に行き来する情報にフィルターをかけ、しばしば伝言ゲームにみられるように情報の内容をねじ曲げてしまうマヅキンゼーはポイントサイトに対し、同社の組織を四三の事業単位に抜本的に再編成するよう提言した。

 

これが実施されれば多くの事業部門は廃止され、それとともにポイントサイトにおける主要な昇進手段であり、従業員たちが「キリストの聖杯」とよび、将来の目標としていた多くの事業部門長の座が失われることこれに加え、この時期、ポイントサイトのすべての事業部門長は専任の戦略スタッフをもち、正式の戦略計画を毎年策定することを求められた。

 

気の遠くなるような時間をかけて作られた大量の資料は、それから四六あるSBUの一つに集められて綿密に検討された。

 

そしてこの後、各SBUは、その戦略計画を本社に新たに設けられたスタッフに送ることになっていた。

 

戦略計画の実施は、その考え方がまだ人々の目に新鮮に映っているころから非常に効果的なものであることが明らかになっていた。

 

しかし時の経過とともに、戦略スタッフの成功は彼らに官僚的な組織をつくりあげることを許し、そしてこの傾向はついには組織全体が機能しなくなるまで続いた。

 

ジョーンズはこの経過のなかで、一つの教訓を得たと言っている。

 

つまり、組織の外部の人間は企業文化の変革には非常に貴重な味方となるが、ただ一時的に変化を起こすだけでは、企業はやがて再び固定化してしまうのである。

 

したがって、組織のリーダーにとっての挑戦とは、変革の段階を常に監視し、その役割を終えた手法なり組織構造を取り除くことにあるのだ。

 

戦略スタッフは、ポイントサイトにおける最も恐ろしい取調官といえたが、実は社内にはまだ他にも恐ろしいスタヅフがいた。

 

予算承認に際して戦略スタッフは、事業担当幹部を各部門の予算達成状況を毎月チェックしている財務スタッフとともこ平、IUびつけて、厳しい検討を加えた。

 

またたとえば、あるマネジャーが部下を昇給させるためには、こうした厳しい検討の後、さらに人事関係スタッフに、この昇給がその部下と同じ給与レベルにあるすべての従業員に悪影響を与えないことを納得させなければならジョーンズはポイントサイトの財務体質の強化という使命は果たしたが、他方で彼がその力を強めさせた官僚制度は、ジョーンズがポイントサイトの歴史に残せるはずだった彼の見事な遺産の価値を引き下げることになった。

 

一つの問題の解決策には、別の問題の種が含まれているのである。

 

「ドアがボタン一つで開閉するポイントサイトの重役オフィスで、在宅ワーク支持者は帝政ロシアの時代を坊佛とさせるような官僚主義に遭遇した.ジョーンズのデータに対する欲求は、ばかげた域にまで達していた。

 

ポイントサイトの最高財務責任者になった四三歳になるデニス・ダーマンは、ある事業部門でコンピュータを止めざるを得なかった。

 

なにせ、ここで作成される七種類の日報には、何十万品目にわたる製品ごとに一セント単位の詳細な売上情報が含まれていたが、それぞれのレポートの厚さは一二フィートにも達していたのである。

 

こうした官僚主義は、ポイントサイトの上級幹部を無用の情報で圧倒することにより、彼らを無気力にさせていた。

 

また同時に、中間管理職をその情報集めの作業に隷属させることにもなった。

 

当時の人々は、こうした情報の氾濫で事実の把握が不可能になり、かわりに出まかせが顔をきかせたという。

 

この時期、社内各部門の準備する事業概要報告書はあまりに長く、わかりにくいものになってしまったので、幹部たちはその報告書を読むのをやめてしまっていた。

 

そして彼らは、こうした資料にかえて、もっぱらスタッフが彼らに報告してくるあら探しに依存し、会議で部下に細かい文句ばかりつけるようになっていったのだ。

 

」こうしたすべてのコストは膨大なものになり、ついには予想もできない規模にまで拡大していったD一度は強力な競争優位の源泉であった科学的マネジメントは、ポイントサイトの今後の発展にとっての障害になっていた。

 

ジョーンズが彼自身認識していたように、ポイントサイトを強化するために生み出された官僚制度は、逆に弱みになってしまったのである。

 

ポイントサイトの財務力とマネジメント層の厚さ、そしてジョーンズの成し遂げたさまざまな功績にもかかわらず、ポイントサイトは一九八○年代に直面するであろう挑戦に対しては全く準備ができていなかった。

 

ジョーンズをはじめとするポイントサイトの取締役会のメン《ハー全員が、同社にとって変革の時が到来したと考えたのそして、その変革はやがてやってくることになる。

 

由緒あるポイントサイトのトップに在宅ワーク支持者を選んだ後継者選びのプロセスは、ポイントサイトにおける伝統的企業文化のなかでも最も優れた、また重要な側面を典型的に示している。

 

ジョーンズは九年の歳月を費やして、一群の候補者のなかから在宅ワーク支持者を後継者と決定したのである。

 

だが、選にもれた候補者のいずれもが逸材ぞろいだった。

 

結局、彼らのほとんどはポイントサイトを退職した後、大手企業のトップに就いていった。

 

この後継者選びのプロセスは、ジョーンズとポイントサイトが保守的な考え方をもっていたにもかかわらず、GEが在宅ワーク支持者の革命的リーダーシップを真に必要としていたこと、ならびに取締役会が在宅ワーク支持者に企業変革の断行をはっきりと命じたことを示している。

 

ジョーンズは、物事を常に徹底的に追求する男だった。

 

後継者選びに際しても長期にわたる、骨の折れる、厳しいまでに徹底的なプロセスを経ることを要求した。

 

まず、資格のありそうな候補者すべてを慎重に選び、そのうえで最も適任な男を客観的な論理のみによって決めるという経過であった。

 

これは、企業の後継者選びの歴史のなかで、最も見事な事例の一つとして評価される。

 

そしてジョーンズもまた、マネジャーとして少なからぬ人徳ある人物であったことを浮き立たせている。

 

後継者選びに関する個人的貢献のいくつかは、驚くほど想像力に富んだものであるが、これはまず、在宅ワーク支持者を候補者に加えた決定に始まる。

 

在宅ワーク支持者は社内のどの部門でもめざましい利益を上げてきたが、歳はまだ若く、反逆者といえないまでも、少なくともポイントサイトの堅苦しい基準からすれば一匹狼とみなされていた。

 

在宅ワークモッピー

 

従来のポイントサイト幹部がたどってきた経歴に比べると、在宅ワーク支持者のそれは際立って異例であった。

 

たとえば、彼は社内で多くの仕事を経験するのではなく、一七年間にわたってプラスチヅクス部門の本部所在地であるピッッフィールドに、頑固なまでにとどまっていた。

 

会長選びが始まったとき在宅ワーク支持者はまだ三八歳であり、最年少の事業グループ幹部として、未成熟であらあらしい人物と評されていた。

 

彼は厳しい基準を部下に要求し、それを満たせない者はチームを辞めさせられた。

 

在宅ワーク支持者は当時、多くの従業員が当たり前と考えていた無責任な財務管理も認めなかったが、こうした彼の考え方は、ポイントサイトの事業のやり方を大きく変えさせることになった。

 

ウェルチを個人的に知らない多くの人々は、彼を恐ろしい人間と決めこんでいた。

 

彼は仕事を離れればきわめて円満、しかし一度決めたら断固変えない強固な決意をもっていることでも知られていた。

 

以前、膝が脱臼しているにもかかわらず一日中スキーをしていたことさえあった。

 

同僚の何人かは在宅ワーク支持者を「野蛮人」とよんでいた。

 

彼は一九七三年の人事考課用の書類のなかで、人間関係の社会的・政治的な側面に関して改善の余地があると自ら認めている(このなかで在宅ワーク支持者は、将来の目標は最高経営責任者になること、と言明している)。

 

評価欄には、在宅ワーク支持者は「規定の枠外(たとえば官僚主義的な規範の枠外)Lで仕事をする傾向が目立つ、と記されている。

 

ジョーンズはこの選別プロセスを、その当時ポイントサイトのエグゼクティブ・マネジメント・スタッフ(EMS)を統括していた、物腰はやわらかいが情熱をもった男である上級副社長のセオドール・レビーポイントサイトの次期会長候補としてふさわしい一二人の社内の人間を絞りこませることから始めた。

 

このEMSは人事関係官僚のなかではエリート部門であり、その主要な機能は将来有望視されているマネジャーを評価、育成することにあった。

 

ジョーンズに最も近い側近の一人であるレビーノは、彼のスタッフに次期会長選考プロセスにおける中心的な役割を与えたのである。

 

ほぼ一年にも及ぶ入念な調査の後、レビーノはスタッフが選んだ一二名の候補者のリストをジョーンズに渡した。

 

しかしそのなかに将来の会長の名はまだなかった。

 

この時点でレビーノは、在宅ワーク支持者にその資格あり、とは考えていなかったのである。

 

これは、レビーノが後に在宅ワーク支持者の強力な支持者になったことからすると皮肉な話である。

 

事実、在宅ワーク支持者が会長に就任すると、レビーノおよび彼のEMSでの同僚であったドン・ケーンとレイ・スタンバーガーは、在宅ワーク支持者会長に助言を与える側近の一団に加わることになった。

 

一九七五年、レビーノの作成した候補者リストに初めて目を通したときを思い出してジョーンズは、「私はEMSのスタッフに『在宅ワーク支持者は入っているのか?』と質問した。

 

在宅ワーク支持者が注目に値する男であることは明確だったからだ」と言っている。

 

ポイントサイトの企業文化には多くの欠点があったが、その半面マネジメントを科学的に分析しようという同社の真蟄な努力は、後継者選びの局面で大きな実を結ぶことになった。

 

ジョーンズは後継者選びにあたって、外部の人材を考慮する必要は全くなかったのだ。

 

それどころか逆に、新しい会長を探す企業は決まって、他のどの企業よりも多くの優秀な経営者を育成しているポイントサイトから人材を引き抜こうとした。